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冷泉為和の歌碑についての由来

冷泉為和の歌碑についての由来
報土寺の本堂前に戦国時代宮廷歌檀の第一人者冷泉為和の歌碑が建てられた。為和は歌聖藤原定家の直系冷泉家第七代の当主である。
当時応仁の乱(一四六七~七七)後の荒廃した京都を逃れて駿府に流寓した公家殿上人はかなりの数にのぼっていた。権大納言冷泉為和もそうした中の一人であった。為和が駿府に下向して来たのは享禄四年(一五三一)頃即ち報土寺草創のころである。さすがは当代一流の歌人為和は駿府へ着くと間もなく氏輝、義元等今川氏一門をはじめ、葛山・岡部といった重臣たちを門弟としてそれぞれの邸で月次歌会を催すなど活発な文学活動も展開した。

為和は天文一八年(一五四八)没するまで駿府に居て彼自身今川氏を称していたことは現在宮内庁書部陵部所蔵の彼の歌集が「今川為和集」と銘うってあることで理解できる。
その為和が駿府滞在中我が報土寺において歌会を催すこと九回、十一首の和歌を詠んでいる。それは「今川為和集」の中に歴然としるされている。報土寺境内にある歌碑に彫られた和歌はその中の天文十二年(一五四三)五月二日の歌会の折りのもので、この歌の題の「還年」は長寿をいうので軒の瓦が苔むすといえば一年や二年のことではい。
何代という長い年月を栄え続けてきた証しで、それと競うように枝を伸ばした松の緑の気品のある美しさを讃えて長寿を祝う歌とした手腕はさすがである。
為和より少し遅れて、弘治二年(一五五六)駿府に来た権大納言山科言継も報土寺に参拝している、これは戦国史研究の一級史料「言継郷記」に詳しく記されている。

(文責 長倉 智恵雄)

南無阿弥陀仏の名号の碑の由来

当山の墓地にお名号の碑があります。以前は古い石碑でしたが、石の風化が進み倒れる危険性があったので、石碑を新しくして現在の場所に設置しました。このお名号の由来は碑の裏面に下記の通り書かれています。

経に曰く至心信楽即得往生不退転と、仏道の門多しと雖も特り弥陀大悲の本願念佛往生の要法こそ諸宗派に超越して末代に輝き軟化最劣の衆生を救済する宣なり。

佛も罪障深重の衆生の為には、極善極上の法を説かれた。尊師夙に如来の心法を奉じ、大師の衣鉢を継ぎ大乗経典を経とし、神儒二経を緯とし、大戒心学の一派を興し、天地自然の公道に則り、浄土易行の担途を履み三世因果の理法を解き為善最楽の善行を勧め実践し、自ら範を垂れ教えを布き巡錫示導殆ど寧白なく倦まさること四十余年、慈海に感じ高徳に浴する者東西二京及び各地信行員五千余人皆機に応じ、転迷開悟凡夫宣入の真心を決定し浄土に安養せり。尊師姓は守本名は恵観無住庵と号す。京都の人大正五年二月二十七日清水迎山の草庵に寂す。亡十有四年、今茲に静岡なる信行社員相謀り碑を建て遺筆の名号を賜りて永く報恩謝徳の誠を致し合掌礼拝して曰く

石碑のこの文は、要約すると明治から大正の時代にかけて、守本恵観師を中心とした本願念佛の教えを信法するお念仏の宗教教団が存在し、京都、東京また地方合わせて5千人の信者がいた。恵観師は晩年を清水の迎山で過ごしお念仏の教化をしながらそこにて往生を遂げた。その後弟子たちが集まりこのお名号の石碑を何かの縁で当山に建てたと思われる。

現在は石碑を新しくし客殿のまえに設置されています。

 

養国寺慰霊之碑について

報土寺の末寺に安彌山丹龍院養国寺という浄土宗の寺が本通り7丁目74番地にありました。
開基は寛正6年(1466)開山は松蓮社貞譽玉山上人還阿和尚。養国寺は報土寺の末寺となり歴代の当山住職が養国寺の住職を兼務しておりました。しかし昭和20年6月19日の静岡大空襲により堂宇墓地等すべて焼失してしまいました。
その後戦後復興を進めていく上で、昭和27年養国寺は報土寺に合併されることに決まりました。開基より約550年、歴代住職はじめ檀信徒の人々本通り7丁目の人々、その他養国寺の護持の為にご協力を頂いた多くの善男善女の方々に御礼を申し上げ、ここに養国寺慰霊之碑を建立する。

平成19年8月
報土寺住職  泰譽博隆

宝物

墨絵観音

中国の牧渓作、徳川家康公の寄附。

自家賛

馬上の東坡、蘇東坡作

弥陀三尊

来迎仏、恵心僧都作といわれる。

天下平の三文字

徳川四代将軍家綱筆
谷庄三郎寄附状つき
(浅草観音の創立者)

茶碗

家康公野戦で使用したものと伝えられる。