報土寺のご案内

報土寺建立の地

報土寺建立の地

当山は、大永2年(1522)浄土宗大本山鎌倉光明寺第14世督蓮社法譽智聰上人によって駿府宮ヶ崎に開創されました。智聰上人は、駿府出身の人で当山檀信徒駿河区中村町の石上家のご先祖であると伝えられております。宮崎山の山号は、浅間神社の三社の中の大歳御祖神社の宮前という意味で、宮ヶ崎町の町名にも由来しています。宝池院の院号は、極楽浄土の荘厳 阿弥陀仏の報土に存在する宝池に由来しています。そして報土寺の寺号は、阿弥陀仏のご修行により報われた仏土、つまり極楽浄土のことであります。本尊阿弥陀如来像は、平安時代末期今から1000年程前、行基菩薩の作と言われている。

開創当初は今川家の時代であり、京都から駿府に来ていた公家で歌人の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。(詳細はこちらをクリックして下さい)

江戸時代になると、徳川家康公が政治の実権を秀忠公に譲り駿府に隠居したため、しばしば家康公が当山を訪れていた記録もあります。
慶長18年(1613)8月15日当山住職乗譽祖的上人の時代、家康公 秀忠公が当山を訪れ家康公の父広忠公の50回忌の法要を、増上寺住職観智国師が導師を勤め行われた。そして8月13日15日両日には、当山において家康公の御前で 観智国師はじめ駿府の浄土宗の僧侶また近隣の住職たちによる浄土の法問が行われた。
そして、この法問で活躍した乗譽祖的上人は、その後愛知県岡崎市にある松平家菩提寺大樹寺の第18世住職となり、また当山住職一譽霜月上人も大樹寺第23世になり、報土寺と徳川家との関係が深まり、幕府より19石3斗の御朱印を賜ることとなる。

しかし明治時代になると、明治政府による神仏分離令により廃仏棄釈の影響を当山も受けることとなり苦しい時代を迎えることとなった。当時の住職はその時代こそ仏教をお念仏の教えを広めるべきと考え、明治13年東京、大本山増上寺法主 また後に京都、総本山知恩院門跡を務められた福田行誡上人を説戒師としてお招きし、報土寺において受戒会が開かれた。その際受者として、静岡の両替商伊伝の渡邊家5代目林八と6代目直道が参加をし、行誡上人は二人に敬虔な仏教徒として実道居士と魏山居士の法号を授けました。

大正時代になると、当山第33世昇譽潜龍上人が仏教の社会的実践を説き、境内に報土寺保育園を大岩に青葉保育園を開園し、当時としては先駆となり寺院が幼児教育に携わり、仏教的幼児教育を広めて行くことになった。今でも70歳以上の卒園生がおられます。しかし昭和20年6月19日米軍の空襲により、当山も堂宇、保育園、庫裡、境内施設、墓地墓石などすべてを失うことになった。(本尊阿弥陀如来像と数点の宝物は持ち出して無事であった)

しかし、戦後復興を檀信徒と共に進めていき、早くも昭和29年には当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの本堂が完成し、11月14日落慶法要が行われた。

その後は、昭和、平成の時代を寺と檀信徒とともに歩んで現在に至っております。

耐震工事について

鬼瓦本堂の正面右前に設置してある鬼瓦は、以前本堂の屋根瓦の一番上の護り瓦として安置されていたものです。当山の本堂の屋根は瓦葺きでしたが、東海地震の地震対策として、屋根を銅板葺きにする工事を施しました。その結果、銅板の総重量は瓦の時の総重量に比べ十分の一となり、他にも本堂の窓を二か所無くし、耐震補強工事を進めました。現在は、地震に強い本堂として本尊様をお守りしております。

概要

寺院名 宮崎山 宝池院 報土寺
住職名 戸崎 博隆
住所 〒420-0868
静岡市葵区宮ヶ崎町110番地【地図
TEL 054-252-4920
FAX 054-251-8496
開山上人 督蓮社法誉智聡上人
開基年次 大永二年(1522)
寺宝 家康公より寄附された墨絵観音(中国牧溪作) 弥陀三尊(恵心僧都作) その他

年中行事

修正会

初詣、一月一日午前6時、本堂にて法要、新年挨拶。

御忌会(ぎょきえ)

宗祖法然上人の命日に行う法会毎年一月に勤修。

春季彼岸会法要

三月十八日(彼岸入り)一つには自らの心行をふるいはげますと共に先亡の追善供養を営む。

施餓鬼会

毎年七月十七日 新亡並びに各家御先祖と三界萬霊に飲食を施し、供養する。

秋季彼岸会法要

九月二十日(彼岸入り)

十夜法要

浄土宗に於て十昼夜を一期として修する念仏会、略して十夜又はお十夜ともいう。
各地方に於て毎年盛大に厳修されるが、今日では諸種の事情により十日十夜を短縮して一日で行われる。

月例行事

朝まいり

毎月一日 午前六時

例会

毎月十四日 勤行と法話

掃除の日

毎月第二日曜日 午前八時三十分より

ご詠歌練習

毎月十四日午後 ご詠歌練習日